Act.02 前夜の真相(side:壱)


「い、ち?」

風呂上り、まだ濡れたままの髪をタオルで拭いながら歩いていた二階の蒸し暑い廊下。
小さく呼ばれた自分の名に足を止めた。

「……? 雛?」

濡れた髪を後ろに振り払い顔を上げると、もう僅かの距離にある雛の使っている部屋のドアが身一つ分ほど開いていた。
明りのついていないらしい部屋の中、ドアノブに両手をかけたまま雛がへたり込んでいる。

「――壱?」
「雛、どうしたの? 具合悪い?」

足早に近づきドアを開け放つ。

「雛?」

座り込んだまま口を噤んでいる雛に手を差し出し――差し出した途端、腕を引っ張られた。
両手をついてどうにか雛を下敷きにする事態は避けたものの、屈んでいただけに転倒は避けられず、部屋の中に雛と二人転がり込んでしまった。

「……たた……、……雛、大丈夫?」

意図したわけではないが、成り行き上押し倒した形になってしまった雛を見下ろす。
薄暗い中、「ん、平気。」と漸く雛からの返事があった。
怪我はしていない様だと安堵しながら身を起こそうと力を込める。が、雛の突拍子も無い発言により、見事なまでにその動きを阻まれることになった。

「ね、壱ー、今日一緒に寝よう?」
「――は?」

今、なんて言った?
するりと首に回された雛の両腕に捕らえられながら、どう考えても常の雛らしくない言葉に間の抜けた声が出た。

「何よ、嫌なの?」
「や、嫌って……雛、ホントにどうかして……、」

否――大体にして幾ら不測の事態とはいえ圧し掛かられているというのに文句の一つも出てこないというのは、明らかにおかしい。
薄暗い中で雛の様子を確かめようと顔を近づけ、近づいた分だけ雛の香りが鮮明になった。
柑橘系の香りに混じって……この匂いは多分。
――なるほど、よくよく見てみれば、紅潮した頬に若干座ってはいるもののどこか潤んだ目。
冷房が随分と効いている部屋の中にも関わらず、触れてくる雛の体温は随分と高い。
おまけに酒の匂いまでしているとなると、どう考えても酔っ払いだ。この不良娘。

「お酒飲んだね?」
「……お酒ー? 飲んでないわよぅ……未成年だもの、私……」

呂律の怪しい口調で何を況や、だ。
けれど今時の女子高生のようでいて可笑しなところで古風な雛が、進んでアルコールを口にするとは思えないことも確かだ。

「それじゃあ、寝る前に何か飲んでない?」
「――節子さんに、蜂蜜を溶かしたみたいな甘い飲み物、もらった……。」

母さんに貰った蜂蜜のような飲み物。
脳裏に浮かんだのは引越しの時に見たはずの、瓶にたっぷりと入っていた液体。

「雛、それね、多分蜂蜜酒。どれだけ飲んだの?」

元々健康酒として作ってるはずだから、それ程量を重ねなければ前後不覚になるまで酔ったりはしない。
だというのに、雛のこの有様。

「はちみつしゅー? えーと、ちっちゃいコップに二杯、くらい?」
「二杯? たったの?」

ふわふわとした笑顔でこくりと頷かれ、脱力したくなる。
一体どれ程飲んだのかと思えば……。
幾らなんでも弱すぎるよ、と呟くと、何がつぼに嵌ったのか、雛がくすくすと笑い出した。

「――んーふふふ、あのね、今、凄くいい気分。」
「はいはい、わかったから。水持ってくるから、少し大人しくしといで。」

納得の行った事態に、雛の腕を解いてやれやれと身を起こす。ついでに雛も引き起こして座らせた。

「壱、いっちゃうの?」
「直ぐ戻ってくるよ?」

俯いている雛の丸い頭をとんとんと軽く叩いて踵を返す。
寝巻き代わりにしている黒いTシャツの裾が、くっと後ろに引かれた。

「ひーなさん? お水取りにいけないんだけど?」
「――水、いらない……いらないから、だから……ね、あの、いか、な……、」

消え入るように言葉が途切れる。
口を噤んだその先に隠されている言葉。多分それは、行かないで、その一言に違いないだろう。

「だから?」

わかっていても雛の口から聞きたくてつい意地悪をしたくなった。
酔ってでもいなければなかなか言ってはもらえないのだから、この程度は許される範囲だと自分を納得させて。

「だから……。」

姿を目にしていなくても、強情で可愛い思い人の葛藤を手に取るように感じる。
唯唯と誘導に乗らない程度の理性がまだ残っているらしい事に入り混じる安堵と失望。

「――なんでも、ない。」
「そう?」

最終的に辿り着いた結論には雛らしさがしっかりと滲んでいて、苦い笑みが零れる。

――残念。欠片も思考力がなくなるくらい酔っていてくれれば本音が聞けたかな。

結論を出した雛の手がシャツから離れ、引き止める力が無くなった事を由と半端に開いたままの扉に手をかけ軽く引く。が、半分ほど開いたところで背後から伸びてきた手にそれを押し戻された。
軋んだ音を上げ、扉がぴたりと閉じられる。ついでに鍵まで掛けられた。
普段、滅多に使われる事はなく既に装飾と化しているそれが、当の主人が前後不覚に陥っている状態で役立つと言うのも妙な話だ。

「今日、暑いわね。」

どこかたくらみを含んだ雛の吐息が背中にかかる。続いて衣擦れの音。

「えーと? 暑いって……雛さん?」

まさかと思いながら振り向いた先では、丁度、雛が下着を脱ぎ終えようとしている所だった。
勢い良く脱ぎ捨てたと思しきキャミソールとショートパンツは既にフローリングの床に散乱している。
元々大仰に着込んでいるわけでは無い、脱ぐのは実に容易かったらしい。

「いくら夏とは言え風邪引くよ?」

溜息混じりに諭してみたが案の定効果はなかった。
薄い青色の布が、雛の手からはらりと床に舞い落ちる。

「じゃ、壱があっためて?」

素直じゃないよね、雛は……。たった一言お願いしてくれればこんなことしなくても傍にいてあげるのに。
でもみえみえの色仕掛けに乗ろうとしている俺も、どうかしている。

「階下には母さんたちがいるのに? ――それでも良いの?」
「壱は、嫌?」

ずるい訊き方で、雛がにこりと笑う。
首を軽く傾げて見上げられてしまえば、俺が拒めきれるはずもない事をわかってるのか、それとも無意識か。
白旗を掲げ意味を込めて溜息を一つ。リスクは充分覚悟して、苦笑いのまま軽く両手を広げた。
……罠にかかった気分、というのはこういう感じかもしれない。

「あっためてあげる、おいで、雛。」

ぱっと顔を輝かせ躊躇うことなく飛び込んできた雛を腕の中に収め、抱き慣れた体にゆっくりと愛撫を施す。
胸のラインに沿って核心には触れず手を這わせていると、ややして甘さと不満が混じった吐息を雛が洩らした。

「壱、もっと、ちゃんと。」
「ちゃんとって? あっためるだけが目的でしょ?」
「……違……っ、……だって……、……もうっ、かわさないで、よ、馬鹿壱っ。」

顔を真っ赤にして最後の方は涙声になった雛に――即物的な言い様ではあるけれど――下半身が酷く疼いた。
普段以上に感情の起伏が激しく、笑ったと思ったら泣く。この我儘で可愛い猫を、もっと鳴かせたい。
両脇の下に手を差し入れて、雛を抱き上げる。
驚いているらしく身動きしない雛を良いことに、そのままベッドまで連れて行き押し倒して上から覆いかぶさった。

「壱、乱暴……っ。」
「かもね。だけど雛が焚き付けたんだよ? ――責任は取らなきゃ、ね。」

足の間に手を差し入れ、中心を撫で上げる。
雛が背をのけぞらせたが、構わずに既に濡れたそこへ指を滑らせ硬くなった突起に触れた。

「だから雛、俺が何をしても嫌がっちゃ駄目だよ?」

指の腹でそこを押さえ緩く刺激しながら、殊更にゆっくりと確認する。

「ん……っ、あ……っ、あ! わか、わかった、から……壱、」

――もっと気持ち良く、して?

艶を含んだ声に乞われるまま――ぬかるんだ雛の中に指を埋めた。



***




「ん、壱……壱、も……痛い、」

雛の甘さを含んだ訴えに顔を上げる。

気が付けば、今まで唇を当てていた雛の鎖骨の上辺りに紅い鬱血が出来ていた。
常であれば、服で隠しきれない場所にはつけないはずの跡。それが白い肌の上で不規則に幾つも踊っている。
約束どおり嫌がらず、躊躇うことなく愛撫に答えてくれる雛が素面の時とはまた別の意味で可愛くて、止まらなかった。

「ね、雛。部屋のドアを開けてたのは、もしかして俺にこうされる事を期待してたから?」
「――……て、だって……凄く、体が熱かったんだもの……。」

体が熱かった、それは性的興奮ではなく間違いなく酔っていたからだろう。
けれどそれを雛に教えるつもりはない。
お陰でありえないほど可愛い雛を見ることができた事を考えると、勘違いしてくれて結果的には上々だ。

指を中で動かしたまま、胸の頂きに口をつけ軽く歯を立てると、内壁が収斂した。
少し強めに指を引くと、淫靡な音が静かな室内に殊更大きく響いたようだった。

歯を立てた為にさらに赤く色付いた頂きに舌を絡めて舐めとると、雛の腰が浮いた。
焦らしながらゆるゆると愛撫を下に向けていく。
色素の薄い茂みの下、ぬめりを帯びたそこに辿り着いた所で、雛は堪りかねたように甘い嬌声をあげた。

「ふ、う……あ、あ……んっ!」
「雛、声は駄目。」
「……っ、や、そんなとこで喋らない、で。」

開いた雛の足を手で押さえて中心に顔を埋めながらやんわりと嗜めたのだが、びくりと身体を振るわせた雛から甚く不興を買った。

「……それに、そ、なこと、言われて、も……ん、う、」
「そうだねぇ、じゃあこれ――噛んで?」

脱いだシャツを眼前に翳せば、素直に口を開ける。シャツの裾を食ませ、もう一度、雛の中をゆるく嬲る。
雛の中から溢れる透明な液体を啜りながら緩慢な刺激を与えた。

くぐもる喘ぎ声。
シングルサイズのベッドが二人分の重みに、ぎしりと軋む。

「……ん、ぅ……ん、」

律儀にシャツを口に含んだまま、けれど焦れたらしい雛の指先が、躊躇うようにそろりと髪に触れてきたのを感じた。

「何、雛、止めて欲しい? それとも自分でしたい? ――ああ、それも楽しそうだね。」
「は、あ……ちが、違う……っ、壱……、も、いい……から……壱が、欲し……、」

ふとした思い付きだったのだが、自分でする姿を見られることに余程抵抗があるのか、シャツの裾を口元から零れ落とした雛が目尻に涙を含ませ激しく左右に頭を振る。
確かに今の状況で余り酷な事を要求するのも可哀想――とは、多分自分に対する体の良い良いわけだろう。

華奢な指に捕らわれていた髪が解放されたのを良いことに雛の上に圧し掛かると、荒い呼吸と一緒に上下する白い胸にそっと触れる。

「――俺も、そうしたいんだけど、ね?」

けれど、雛の中に入りたくとも、何一つ準備をしていない。
大体が風呂上りに引っ張り込まれたのだから当然といえば当然なわけだが、先程から見せ付けられている雛の色を含んだ媚態に自分を宥めるのもそろそろ限界だった。

「……壱……?」

後もう少しの刺激で達することができるだろう雛が、どうしたのかと言う様に見上げてくる。
時にとんでもなく女の顔をするくせに、今はやけに年相応にみえる。

――やっぱり最後まで、は……まずいか。

ぎりぎりで理性が主張した。

「ん、わかった、いかせてあげるから。雛、指と舌、どっちがいい?」
「……なん、で……どっちも、や……壱、がいい……。」

泣きそうな顔をしながら求められ、頭の芯がくらりと揺らぐ。

「あんまり可愛い事言うと、本当にスキンつけないでしちゃうよ?」
「……しても、いい」
「雛、あのね」

きっと何一つ考えずに受け答えしているのだろう事はわかっていても、ついそれを良いわけにしてしまいそうだ。
頭を冷やそうと、雛から離れる為に身を起こしたら、片腕に当の本人がしがみついてきた。

「行っちゃ駄目っ。」
「……雛、俺もちょっと理性が飛びかけてるから、あんまり刺激しないで。」
「壱がいい、壱じゃなきゃいやなのっ。」

切望するように懇願され、求められて。
気付けば、再びベッドに雛を縫い付け、思う様咥内を蹂躙していた。
誘うように雛の舌を絡めとる。遠慮がちに動く雛の舌はたどたどしく、それがまた欲を誘った。

――リスクを覚悟の上で乗ったのは、俺だ。

離した舌の先から糸が引く。
くしゃくしゃにされた髪をかきあげ、掴まれた腕をそっと解くと、雛の手が今度は力なくぱたりとベッドの上に落ちた。

「――少しだけじっと待ってて?」
「どこ、いくの?」
「しー、雛、静かに」

片手でやんわりと口元を塞ぐ。雛は無言のまま涙の滲む瞳で訴えかけてきた。

「雛、ゲームをしよう。俺が戻ってくるまでの間、声を出さずに静かにしていられたら雛の勝ち。雛が勝ったらひとつだけ何でもいう事を聞いてあげる。」

惑うような間の後、雛がこくりと頷いた事を確認して、口を覆っていた手を離す。
ベッドから降り適当に服を身につけた後、じっとこちらの様子を窺っていた雛の頬に掛かった髪をゆっくりと払った。

「……静かにしてたら、何でもきいてくれるの?」
「何でも雛が望む事を。でもまけたらお仕置きだけどね?」
「すぐ、戻ってくる?」
「もちろん。」
「……。」

無言のまま、雛がシーツの中に頭まですっぽりと潜り込む。
愚図ったかなと、苦笑いで頭を掻き、丸くなったシーツの上を二三度軽く叩く。一向に反応の無い雛に、仕方なくベッドから離れ静かにドアへ向かった。

けれど、部屋から出る直前。
確かに聞こえたのは「待ってる、から」という、雛のくぐもった声だった。



***




「母さん? どうかした?」

目的の物を下穿きのウェストに滑り込ませ、自室を出ようとしたところで気付いたのは、階段をのぼってくる足音。
ドアを開け顔を覗かせると、雛の部屋の前で逡巡するように立っている母さんの姿があった。

足音に気が付いて出てきたかのように装いながら声をかけると、気遣わしげに落ち着かない様子で母さんがこちらを振り向く。

「あ、昂壱――丁度良かったわ。あのね、雛ちゃん、大丈夫かしら? 何かさっき落ちるような音がしたんだけど、様子がおかしいとか無い? だるいって言っていたから寝る前に薬酒を出したんだけど……その、その後少しふらついてみたいで……。」
「ああ、そうなんだ――えーと、ごめん、でもその物音は多分俺かな。ちょっと探し物をしてたんだけど。」
「え? そうなの? そう、ならいいんだけど……。」

一応誤魔化しては見たものの、どこか納得していないらしい母さんはそわそわとしながら、立ち去る気配は無かった。

「静かだし、もう寝てるみたいだよ? 俺も気にしておくし、何か様子が可笑しい様だったら知らせるから。」
「そう? 大丈夫かしら……昂壱、本当に気をつけておいてね? お願いよ?」

女の子も欲しかったと公言して憚らないこの母は、新しく出来た娘をいたく気に入り可愛がっている。
”雛ちゃんは女の子なんだし昂壱とは違うの”がこの頃の口癖になりつつある為か、話を纏めたもののまだ心掛かりの体だ。

さて、どうするかな。

普段なら少し様子を見てみたら、程度のことは言っている所だが――今の状態でそれは非常に不味い。
清い交際宣言ならまだしも、いきなりの濡れ場じゃ雛と引き離される公算の方が遥かに高くなる。

「母さん、」
「――あら?」

何かに気が付いたかのように、母さんが階段のある方向へ視線を転じた。

「ただいまー、おーい、節子さん?」
「あらあら、やだ竜彦さんだわ。」

階下から、雛のお父さん、つまり俺の義父となった人の声がしていた。
絶妙のタイミング。今、帰宅したらしい。

「それじゃ昂壱、お母さん下にいるから。雛ちゃんのことお願いね、絶対よ?」

慌しく言い残し、線の細い背中が慌しく階段へと消えていく。

背を向ける前、母さんが見せた幸せそうな笑顔に笑い出したくなった。

ホント親子だよねえ、俺と母さん。
母親は父親に、息子は娘に惚れるなんて。
竜彦さん――義父さんは母さんにべた惚れみたいだけどね。

……さて、それじゃ俺も頑張って雛を落として来ようか。



***




カーテンの引かれた暗い室内。
ベッドの上にはまだ丸いシーツの塊がある。

足音を立てず傍に寄りベッドに坐る。触れた途端、がばりと跳ね起きた雛に飛び掛かられた。
まるで悪戯好きの人懐こい猫――と思ったのもつかの間、腕の付け根あたりに鈍い痛み。

噛み付かれた、とわかったのは雛の丸い頭を見下ろしてから。

「雛、こら噛み付くな。」
「かみついてない、跡、上手くつかないんだもん。」

これじゃあどちらかというと気のたった子虎だと肩を掴んで引き離すと、むっと眉間に皺を寄せた雛は噛み付いた俺の腕をしげしげつと見つめている。
……なるほど、キスマーク、ね。でもどう好意的に見ても噛み跡以外の何者でもないよ、これは。

「――教えてあげようか? つけ方。」
「いい、なんか悔しいっ、……あ。」

眉根に寄った皺が突然消え、何かを思い付いたらしい雛は、俺の肩に乗せた手を体伝いに下へと滑らせ始めた。
胸元、腹部、更に下って行く。先程自分が雛にした行為を早送りでみせられているような性急さで。

「……っ、雛。」

布越しとはいえ、雛に触れられ、ずくりと熱がそこに集まった。

……ホント、男って即物的だよねぇ……。

自分にちょっと呆れながら、雛の両手を持ち上げ体から離す。
壱、と不思議そうに見上げられ、とうに綻びている理性の糸が更に軋む。

「――降参。」
「どうして?」
「んー、だって、今の雛、普通じゃないでしょ?」
「……? 私普通だけど? 変な壱。」

変なのは俺じゃなくて雛の方だよ、とは口に出さなかった。
第一、その普通じゃない雛に手を出そうとしている時点で、とっくにそんな事を言う資格は無い。

「雛、おしゃべりはここまで。……足、開いて?」

雛の身体を覆い隠すシーツを滑り落とそうと手を掛ける。
何故かいやいやをする様に首を振り、雛はベッドの上を後退した。

「あっ、や、壱、待って。その前に約束、約束ちゃんと守って。」
「約束?」
「忘れないでよ! 何でも言う事きくって言ったじゃないっ。」

ああ、そういえば言ったねえ。そういうこと。
しっかり覚えていた事が意外で、何を要求されるのかが楽しみでも有り、シーツから手を離した。

「いいよ、何をして欲しい? 何でも言って。」

促すと、雛は躊躇うように瞬きを繰り返し、目線を落とした。
シーツの端をぎゅっと握り締めた細い指。
それが意を決したように解かれた、と思ったら雛は両手で顔を覆ってしまった。

「――――私のこと、好きって、言って?」
「そんなことでいいの?」
「いいのっ、好きって言って。」
「雛が好き。」

指の間から覗く肌、耳、首元、目に触れる部分全てを赤く染め望む雛へ、否というはずが無かった。
請われるままに言葉を口にする。

「もっといっぱい。」
「雛が好き……雛が好き。壱さんは雛が一番好き。」
「――本、当?」
「嘘だと思う?」
「……壱。」

ふわりと伸ばされた両腕が首にまわされ、引き寄せられる。
雛の頬が赤く色付いているのは、何も酒気の所為だけでは無いだろう。

しとりを帯びた瞳に誘われるまま唇を重ねる。
素直に開かれた口の中を時間を掛けて執拗に愛撫する。
一方的ではなく、求め合うようなそれ。絡ませあう舌に、何時しか制御がきかなくなった。
雛の腰をきつく抱き寄せて、更に深く求めながら、すっかり雛に溺れていたのは多分間違いない。

「いち……い……ち……私、もう……私、もう、ね……。」
「雛、声、駄目って言ったでしょ?」

ふつりと雛の声が止んだ。
いつもならかなり不審に感じるところだが、今日の雛は概ね従順だ。何も疑うことなく唇を合わせたままベッドに寝かせ、雛の体を片手で探って膝に手をかけた。

先ほどまでは濡れていたそこを確かめようと雛の足の間に指を伸ばしたところで。
ぱたりと、背中に回っていた雛の腕がベッドの上に落ちた。支えている体が弛緩して、手にかかる重さが増す。

まさか。

嫌な予感に雛を覗き込むと、確りと瞼は閉じられていた。

「ひなさーん? 雛? ……この状況で冗談。」

煽るだけ煽っておいて……。

言葉だけで満足したのか、あろうことか雛はすっかり寝入っていた。

まさか最後に言いかけたのは、“眠い”?
ホントに冗談だろ?

ああもうお悪戯するよ? ――と、雛の鼻をつまんでみるものの、返って来た、ふふふ、と笑う幸せそうな寝顔にすっかり毒気を抜かれた。
幾ら揺すっても一向に目を覚ます気配の無い雛に、これはもう何をしても無駄だなと悟る。

あどけなく眠っているくせに、時折漏れる吐息はやけにしどけない。

――まったくいつの間にこんな小悪魔になっちゃったんだか。

もしかしたら半分以上は自分の所為かもしれない、とはあまり考えたく無い。
結局のところ、酔っ払いに手を出そうとしたのが間違いだったということだ。

自嘲と共に自分を納得させ、雛の横に身を沈める。

明日の朝、無闇矢鱈に酒は飲まないよう釘を刺そうと決め、シーツに包まりこちらを向いている雛の額にそっとキスを落とした。

が……もてあましたこの熱については別問題。仮にも“愛の営み”の最中に寝入るなんて言語道断だよ、雛。

さて今夜のお礼はいつ何処でしてやろう。

頭の中で算段を練りながら目を閉じる。けれど暗転したはずの視界には、脳裏にしっかり焼きついた雛の嬌艶な姿。
腹に溜まった熱がずくりと疼く。

これじゃあまるでサカリのついたオス――ああ、確かに強ち間違ってもいないかな。

とはいえ、意識の無い雛に何かできるほど自分を見失ってはいない。

だから今はもう、高ぶった熱は全て溜息と共に吐き出す――それしか策はなかった。



〜Fin〜



≪ Act.01 結果の翌朝(side:雛)


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