Act.01


会えない時間が二人の関係を育てる―――・・・

なんて言葉はまったく自分には当てはまらないな、とゆうきは会社のデスクに広がった書類の山を眺めながら軽く溜息を落としていた。

どうやら今日も家に戻れるのは、日付が変わってからになりそうな確かな予感を覚える。
仕方のないことだとわかってはいても、流石にそろそろ愚痴の一つも零してしまいたい心境だった。

―――ほぼ一ヶ月・・・か?

体重をかけた椅子の背がぎしりと軋んだ音を立てる。
ゆうきは重苦しい肩の疲れを振り払うように軽く首を振り、先程入れてきて手付かずだった珈琲にようやく口をつけた。

微かに寄せられる眉根。
ゆうきはたった一口飲んだ後、さっさと珈琲の入ったカップを机の上へと戻してしまった。

無性に華の入れてくれた珈琲が飲みたかった。

最後に飲んだのはいつだったかなと思い返し、ゆうきが溜息をつく。

―――やっぱりほぼ一ヶ月前・・・だよな。

つまりそれだけの間、華とゆうきのすれ違いは続いているということだった。


付き合い始めてから、一年。

今までも何度かすれ違う期間があることはあった。が、ここまで長期に渡ってほとんど顔すら見られないというのは初めての事である。

そもそもの原因は、ゆうきの仕事が急に忙しくなった為。

現在、ゆうきはかなり大規模はプロジェクトに関わっていたのだが、ゆうきの部下の一人が不手際を起こしたのだ。

その対応に追われ、ゆうきは休日出勤と深夜残業を繰り返している。

そして、そうこうしている内に華の方でも学校生活が忙しくなっていた。

通常の時間よりも大分早く通学している華と、朝の時間すら合わなくなったのは最早必然だった。

その為、此処しばらくゆうきは自力で朝起き出勤している。
といってもほとんど熟睡できていないので、ほんの少しの物音でも目が覚めるという状況では普段の寝起きの悪さも発揮できず、たいして苦にはなっていなかった。

もちろん華に連絡は取ってはいる。しかしメールでのやりとりだけでは足りない。

―――直に声を聞きたい。触れたい。

如何し様も無い程高まる欲求。

それらを無理やりに押し込める為にゆうきは深く溜息をつくと、再び目の前に積まれた書類に手を付けはじめていた。



***




「瀬守、今日はもう帰っていいぞ。」

午後8時過ぎ。

喫煙所にいたゆうきにそう声を掛けてきたのは、おそらく珈琲の入っているのだろう紙コップを片手にふらりとやってきて、ゆうきの隣に腰を下ろした社内でも有名な昼行灯だった。

どこかぼんやりとしてはいるが、眼鏡を掛けたなかなかに整った顔立ちと大柄な体をしたこの男は、ゆうきより5歳程年上の直属の上司でもある。

「いえ、まだ・・・」

咥えていた煙草を口から離し、ゆうきが拒否の言葉を告げようとする。
だが男はひらひらと手を振り、ゆうきの言葉を遮ってしまった。

「いいから。ほらとっとと帰れ。今月、残業時間えらいことになってるからな。今、お前の抱えてるやつは明日でも間に合うだろ。」

にやりと笑みを浮かべながらいう男に、ゆうきが眉根を寄せる。

「それは純粋に好意として受け取っていいんですか?」

「ああ、そう思っといてくれ。・・・いや、まあ。正直に言うと、この頃可愛い彼女に会えなくてお前の機嫌が悪いと泣きつかれたんだがなぁ。」

―――誰だ、余計な事を言ったのは。

ははは、と矢張りどこかぼんやり笑う上司の顔を見ながら、ゆうきが軽く舌打ちをした。

幾ら華に会えないとはいえ、仕事の時にそのことを表面へ出したりはしていないはずである。

それに華の存在を誰かに言ったわけでもない。

だがこのところすっかり身持ちの良くなったゆうきに対して、本命の女性ができたのではないかと社内で専らの噂になっているらしいことは、ゆうき自身も気づいていた。

おそらく同僚。そのうちの誰かが冗談半分で告げたというのが一番可能性が高いと思いながら、ゆうきは目の前にある灰皿へ煙草を押し付ける。

「勝又さん、お気使いはありがたいんですが。今日はまだ・・・」

――することが、と続けるはずだったゆうきの背中を大きな手がばんと叩いた。

「まあそういわずに。明日からも頑張ってもらわにゃならんからな。偶には早めに帰って彼女の顔でも見て来いや。」

いきなりだった上、かなり強く叩かれて咳き込むゆうきを横目で見ながら上司――勝又が笑みを浮かべ立ち上がる。

「じゃあ、早く帰って鋭気を養えよ。」

「・・・了解です。」

またもや手をひらりひらりと振りながら歩き去っていく勝又の背中を眺め、これはもう何を言っても無駄だなと悟ったゆうきは、大人しく退社することに決めていた。



***




「さて・・・どうするかな。」

勝又の言葉に従い、午後8:30には会社の駐車場に到着していたゆうきは、車の中で携帯電話を手にしながらかなり逡巡していた。

もちろん華に連絡を取るべきかどうかをである。

これから家に帰れば時刻は午後9:00を過ぎるはずだ。
いつもよりは確かに早くはあるが、華にとってはそれなりに遅い時間であろうことを考えると迂闊に連絡をとってもいいものかと迷いがあった。

―――どうせならもっと早くにいってくれりゃいいものを。

すっかり馴染んだはずの勝又のぼんやりした笑顔がゆうきの脳裏に浮かぶ。

だが今更言っても仕方の無いことだ。
すぐに思い直したゆうきは結局、早く帰宅できそうだとだけ華にメールを送った。


「じゃあ、帰るか。」

シートに背を当て、ゆうきが独り呟く。

メール送信を終えた携帯電話。
ゆうきはブルーメタリックのそれをなんとなく手の中で揺らしながら、ハンドルに片手を掛けていた。

が、帰るその前に一服、と思い直し、助手席に携帯電話を放り投げ、ズボンのポケットを探り煙草の箱を取り出す。

車の中に差し込む駐車場の外灯に照らされながら、ゆうきは本日何本目になるのかわからない煙草の煙を燻らせはじめた。


―――そういえば、昔もあったな。華に会えなかったことが・・・。


フロントガラスから見える外灯の光。煙草を咥えたままゆうきが目を眇める。

昔、今と同じように華と会えなかった期間があったことを唐突に思い出したのだ。
いや、唐突とはいってもこのところの状態で、もしかしたらある程度は思い出す要素があったのかもしれない。


その時は、もういい加減限界を迎えていたゆうきが、初めてマンションに女を連れ込んだ翌日の早朝がはじまりだった。

マンションへやってきた華に、ゆうきは情事の跡を全て見られたのだ。
もちろんゆうきにはもともと隠すつもりがなかったのだが、その時華は中学にあがったばかりだったのである。

中学生の華にとってかなりの衝撃はだったはずの、光景。

ゆうきがそれを敢えて華に見せたのは、無邪気に傍に寄ってくる華を抱きしめ、唇を貪りたいと・・・まだ成長しきっていない筈の体を開いてしまいたいとどうしようもなく思ってしまったから。

多分、嬉しそうに新しい制服を見せに来た華を衝動的に抱きしめてしまったのがいけなかったのだ。
ふわりと鼻腔をくすぐった甘い香り。やわらかな身体。僅かな胸の膨らみ。

いつまでたっても腕の力を緩めようとしないゆうきに対して、華が不思議そうな声で「ゆうきちゃん、どうしたの?」と言わなければ、確実にそのまま押し倒していただろうという確信めいた思いは、数年経った今ですら変わってはいない。

小さく軋みを上げ、ゆらゆらと開いたままの扉。
ゆうきの視線の先で揺れているその扉の傍には制服姿の華が呆然と佇んでいた。

のそりとベットの上に起き上がったゆうきを信じられないというように見つめていた華。
ゆうきの隣でシーツに包まっていた相手の女はまだ眠っていた。

ゆうきは何も言わなかった。ただ華を見据えていた。
かける言葉が無かったのか・・・あるいは、華がどう反応するかを知りたかったのかもしれない。

しばらくして華がはっとしたように踵を返し、ぱたぱたと軽い足音を響かせながら去ってしまうまでゆうきは微動だにせずベットの上にいた。

そしてそれから一ヶ月の間。

華は幾ら連絡してもゆうきの家にこようとはしなかった。
もう、駄目だと思っていた。
今、手に入れることができないならいっそ手放してしまおうかとさえ考えた。

でも。丁度一ヶ月後の朝。華は何事もなかったようにゆうきの前に現れたのだ。

ベットルームの中に勢い良く入り込んできて。
目覚めたゆうきににっこりと笑いかけた。

ゆうきちゃん、朝だよ。起きて、という言葉と共に。

その華の姿を見た時、ゆうきが安堵と共に覚えたのは激しい落胆。
華が自分を男として見ていないことが確定的に思えた瞬間だった。

―――そして。ゆうきはその時ようやく、いつか違う男に華を取られる未来に思い至り、愕然とした。

だが、同時にそれは受け入れることの出来ない未来だと、激しく後悔しながら思った。

手放せる訳が無い。まして他の男に渡すことなど考えられない。

けれど想いを伝えてしまえば、欲しくなる。心も体も全て。
なのに、まだ中学生になったばかりの華を抱くことはできない。

自分の中に生じる矛盾。どうすることもできない状況。

最終的に、ゆうきはそれらすべてを内包しつつ華の傍にいることを選んでいた。

華がせめて高校生になるまでは、このままでいよう、と。
それに、もし華がその時他の男に目を向けていたとしても、必ず振り向かせて見せるつもりだったし、自信もあった。

だがしかし、それは幸いなことに杞憂で終わり。
ゆうきは今、華の心も体も手に入れている。



―――そう。確かに、手にしていると・・・思ってたんだがな。

そこまで考えて、今にも崩れ落ちそうな灰に気づいた。
咥えていた煙草をゆうきが灰皿の中へと押し込む。

懐かしく、苦い思い出だった。

思えば、今の状況とは違えども、あれはあれですれ違いではあったな、としみじみ感じる。

以前よりは格段に確かなものになっている華との関係。
だというのに、どうやら以前よりも今回の方が堪えているらしいことに、ゆうき自身気づいていた。

確かに手にしていると思ったのに。どうしてこうも不安になるのか。
会いたい。触れたい。欲求は膨らむばかりだ。

―――華に・・・会いたい。

ゆうきは心の中の本音に溜息を漏らすと、ようやくエンジンをかけ車を発進させた。



***




嫌、触らないでっ。

どこか現実感を伴っていないゆうきに向けられたそれは、今までに無い程激しい拒絶だった。

目の前には、拒絶の言葉を口にして瞳に溢れ出しそうな程涙を溜めている、中学の制服を着ている華。

どうして私にそんなものを見せたのと、幼い口から罵倒の言葉が漏れ。
どん、とゆうきの胸に幼い手で作られた拳が叩きつけられた。

嫌い、ゆうきちゃんなんて大嫌いっ。

零れ落ちた涙が華の頬を伝う。
その涙を拭い去ってしまいたくて、ゆうきは華に向けて手を伸ばす。

触らないでって、いってるのに。言葉と同時にゆうきの手が振り払われた。

もう、ゆうきちゃんの傍にはいたくないの。

決定的な台詞。華の口からでたそれが信じられずにゆうきは華を抱きしめようとする。

酷い焦燥感。

ゆうきの伸ばした腕からするりと身をかわした華の輪郭が、揺らぐ。

そして、ゆうきが見つめる中またはっきりと形を取り戻した時には、今のゆうきが知っている華の姿へと変わっていた。

貴方の傍には、いたくない。

はっきりと、大人びた口調で先程と同じ意味の言葉が紡がれる。

ゆうきは自らの中で芽吹いた不安に突き動かされるように、手ごたえの無い華の体を強引に抱きとろうとし―――・・・ぐらりと、視界が揺れた。




「・・・・き・・・ちゃ・・・、ゆ・・・き・・・ちゃんっ、ゆうき、ちゃーんってば!」


はっと目を開いて、はじめに目に入ったのは眩しい光の中で輝く黒々とした双眸。

人工の光の中でも艶やかな黒色を失わない、その瞳はゆうきの誰よりも大切な恋人が持っているもの。

「・・・・・・・・華?」

ゆうきが寝起きのかすれた声で名を呼んだ。

眩しさに目を細めて見つめる先では、さらりと髪をたらして不安げな華が、屈みこむようにしてゆうきを上からのぞきこんでいる。

無意識のうちにゆうきの手が華に伸ばされた。
そこでようやくゆうきは、今自分がソファに座っていることに気づく。

どうやら仕事から帰ってきて、そのままソファで寝込んでしまったらしい。

―――夢・・・?うたた寝なんぞしたからか・・・。

先程までの最悪な気分を引きずったまま、ゆうきが息を吐く。

自分の現状を把握しようと、嵌めたままの腕時計に目をやれば。
時刻は午前0時を少し回ったところだった。
何故こんな時刻に華がここにいるのか。まだ幾分はっきりしない頭でゆうきが考える。

メールを送ったのは確か午後八時半過ぎ。
今の時刻との差に、思わず幻、若しくは先程の夢の続きではないのかと、華を再び見つめる。

と。何故か華が驚いたように目を見開いて、ゆうきを凝視していた。

「華?」

「・・・ゆうき、ちゃん・・・?」

驚愕の滲み出た声と、心配そうに寄せられる奇麗なラインを描く眉。

何を心配されているのかわからずゆうきが僅かに目を細める。
すると。やや迷いをみせながら、すっと華がその華奢な指をゆうきの頬に伸ばした。

「なんだか辛そうだったみたいだから・・・起こしたんだけど・・・」

ゆうきの頬に軽く華の指が触れる。
すっと華の指が何かを拭うように動き、ゆうきの目の前に翳された。

僅かに濡れているそれを見て、ゆうきはようやく自分の頬に一筋の涙が流れていたらしいことに気づく。

どうやら夢のせいで大分気が高ぶっていたらしい。
自分で頬に触れ、かなり驚いていた。

華が心配そうに見つめてきている。

ゆうきは俯いて苦笑いをもらすと、くしゃりと前髪をかきあげた。

夢を見て涙を流すことなど、今まで一度としてなかったことだ。
いや、涙を流すこと自体、記憶が虚ろになる程ゆうきにって昔の出来事であった。

改めて、自分の中にある華の影響力に驚かされる。

どうやら自分で思っていた程平静ではなかったようだと、ふうと息を吐きながら、ゆうきは両腕を華の背中に廻し、細い体を座ったまま抱きしめた。

立ったまま身を傾けている華の薄い肩口に、ゆうきが自分の額をこつりと落とす。

「大丈夫、じゃないみたいだ。華・・・なぐさめて。」

柄にもないことを言っているとは思っていた。
華が小さく息を呑んだのがわかる。抱きしめた体が少し緊張していた。


「・・・ゆうきちゃん・・・大好き、だよ。」

突然、ぽつりと華が呟いた。
僅かに迷いを含んだ仕草で、そっとゆうきの頭を撫でてくる。

久しぶりに感じる華の体温。香り。感触。

髪に触れる華の手がゆっくりと動くたびに気が静まっていくを感じた。

カチカチと時計の針が時を刻む音だけがやけに大きく響いている。
しばらくしてゆうきはようやく華を抱きしめる腕の力を弱め、顔を上げた。

そして改めて、華の姿を見てみれば。
ストレートジーンズに、体にぴったり合ったフェミニンな白いシャツ。
どう見ても私服のそれ。

今の時刻を考えれば学校帰りではないことは確実だが、では独りで暗い夜道を辿ってきたのかとゆうきが顔を顰める。

「・・・華、連絡よこせば迎えにいったのに・・・ひとりで夜道は危ないだろ?」

「あ、うん。・・・そうだよね。なんだか久しぶりにゆうきちゃんに会えるんだと思ったら・・・そこまで気が回らなかったみたい。・・・ごめんなさい。」

華が、ちょっと首を傾げてはにかんだような苦笑いを浮かべていた。
まだゆうきの髪に触れたままだった華の腕を、ゆうきが掴む。

「・・・華。」

「うん?」

「・・・抱きたい。いいか?」

ゆうきの小さな呟きに、華の頬が薄く朱色に染まった。



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