― ノワール・2 ― 刻印(5) |
ふと目を覚まし重い瞼を持ち上げる。 目を閉じた乙夜の端正な顔が間近にあり、驚くよりも不思議に思った。 どうして乙夜が隣にいるのかわからない。いつもなら早々にベッドから降りてしまうというのに。 考えようとするが、何を考えようとしていたのかを端から忘れていく。 何もかもがぼんやりとして――薄い靄がかかっている、正にそんな感覚だった。 指でそっと乙夜の頬に触れる。 すっかり慣れ親しんだ体温は人のそれよりやや冷たいはずなのだが、いまは自分の指先との違いをあまり感じない。 それだけのことが奇妙に嬉しくて、琴音は眠っている乙夜をよい事に、顔のライン、首のラインと指先で辿っていった。 「――くすぐったい」 不意に乙夜が目を開けた。乙夜は人の気配に敏感だ。恐らく既に起きていて琴音の悪戯を楽しんでいたのだろう。 あわてて引こうとした手を乙夜にとらわれ、琴音は途方に暮れた。 指先に、口付けられる。そっと抱きしめられる。 まるで愛しい恋人を扱うように。 そんなばかげたことはありえない。ありえないのに、愛しまれているような、とても大切にされているような気がしてしまう。 どうしようもなく哀しくて眦から零れた琴音の涙を、乙夜は何も言わず親指で拭った。 「優しく、しないで」 ううん、優しくして――でも、いなくならないで。 なんてわがままなのだろう。このままじゃきっと、最後の瞬間に縋りついてしまいたくなる。 いまの関係は永遠じゃない。決してない。なのに、信じたい。 「もうしばらく眠った方がいい」 乙夜の掌が頬に触れた途端、琴音はすうと落下するような感覚に包まれた。 *** 「仲間にはしなかったのか」 ゆらりと揺れる窓掛に、人影があった。窓の外にある広縁は、地上から人が入ってこられる高さにはない。 舞い込んできた風を含み、窓掛の布が大きく広がる。 淡い光に二つの影。体つきから、どちらも男だと知れた。一人は広縁に立ち手すりにもたれ、もう一方は手すりの上にしゃがみこんでいる。 「――仲間にはしない」 窓辺に寄った乙夜が無機質に答えると、手すりに乗った男が喉を震わせ笑う。 最初に聞こえた重量感のある声とは違い、それはまだ若さを感じさせた。 「でも餌にはしたんでしょ? 血相を変えてなんで戻ったかと思えば、餌の小娘一人を助ける為だったとはね」 「ルイ、やめておけ」 最初に聞こえた声の主が、まだ年若い仲間をいさめる。ちっと舌打ちをした彼は広縁に足をおろすと、室内に入りこもうとした。 乙夜の真横に伸ばした手が窓の桟をつかみ進入を阻む。 「せっかくここまできたんだからあなたのファム・ファタルをみせてよ。中にいるんでしょ」 「断るよ、眠ってるからね。もう子供は寝る時間だろう、君も帰りなさい」 琴音を小娘と呼んだことを揶揄する明らかな嘲りに、ルイの頬がぴくりと痙攣した。 乙夜めがけて銀の閃光が流れる。空気が真一文字に切り裂かれた。 「その短剣、お父さんから引き継いだものだね?」 「……そうですよ」 ぶすりとした声で、ルイは応じた。いつの間に移動したものか、背後から乙夜に羽交い絞めにされている。 「だからやめておけといったろう」 くくっと低い笑い声で年嵩の男に笑われ、ルイの機嫌はますます下降の一途を辿ったようだ。 乙夜が腕を緩めると、乱暴に振り払い、手すりに足をかけてそのまま勢いよく虚空へ身を躍らせた。 瞬きの間に、闇の中へ溶け込んでしまう。 「――あまりいじめるな。へそを曲げると後が面倒だ」 「別にいじめていたつもりはないよ。それに笑った君も大概のものだと思うけどね」 「アレを笑ったわけじゃない。面白かったからさ」 何が、とたずねなくとも男が何を言いたいのか、よくわかっていた。 琴音の危機を知ったとき、この男と行動を共にしていた。醜態をさらしたと思えば、言い訳の仕様もない。 「ファム・ファタールか。……だが、気をつけろ。彼女はお前を滅ぼす諸刃の剣になるかもしれない」 音もなく男の輪郭が闇と交じり合っていく。 その姿が完全に消えるまでの間、乙夜はその場に立ち尽くした。 ――琴音には正当に僕の命を求める権利がある。 ベッドの上に横たわる少女の元へ引き返しながら、刹那、振り下ろされる刃に身をさらす己の姿を見た気がした。 *** こめかみに掛かった髪にくすぐられ、琴音の眉が顰められた。 そっと払ってやると、意識が無いはずの琴音はむずがるように小さく身じろぎし、乙夜は触れる手を静かに引いた。 琴音の足元を覆っていた紅の布がはらりと落ち、薄く蒼い蝶が右内腿の足の付け根付近に浮き上がる。 月下にのみ淡い光の加減で舞う蝶は、琴音が乙夜の獲物であるという証。 乙夜よりも位の低い者が手を出せば――苛烈なる報復を意味する。 ベッドの端に腰掛、乙夜は苦い表情で嘆息した。 仲間にする事はもってのほか、できれば印付けをすら、したくはなかった。 乙夜の力と共に刻み込まれた印は、琴音に激痛をもたらしたはずだ。 痛みを和らげる力は、印を刻む力を弱める。だから同時には使えなかった。 追放をうけ、この小さな島国に住み着いて数十年。 何度も居を変え、名を変え、ひとところに留まることなく過ごしてきた。 その間に闇は加速度的に払拭され、近年では古巣の一族にも代替わりがあり、乙夜を追放した人物も既に失脚している。 戻ってこいと懐かしい仲間に何度か誘われたこともある。だが、その全てを断り、乙夜は琴音の側にいることを選んだ。 けれど助力を求められれば無下に断ることも出来ない。 いまだ追放の身に甘んじている以上、表立ったことはできないが、知識と策を貸すことはあった。 先ほどの男たちは、一人は古い仲間、今一人は既に鬼籍に入った古い仲間の一人息子だ。 結果、辰巳の存在は気にかかっていたが、どうしても一時、琴音の側を離れることになってしまった。 けれど、何も告げずに姿を消したのは琴音を試したいと思う浅ましい思いが自分の中にあったのだろと乙夜は理解している。 よく眠っている琴音の手を持ち上げ口づける。 琴音の手の甲からするりと抜け出した黒い糸を歯で噛みながら引き抜くと、報知の役目を終えたそれは黒い靄になって消えた。 辰巳に近づくなという忠告と同時に、乙夜は琴音の身に障るような事態を感知する仕掛けをしていた。 「君が僕を呼ぶからいけない」 細い指先に愛しく触れながら、乙夜は小さく嘆息した。 琴音の危機が知らされたとき、久しくないほどうろたえた。 この仕掛けにはある一定の条件付けがされていた。ある言葉を切っ掛けに本来の役割――琴音の危機を報知する――を果たすよう仕組まれている。 必然的に、琴音が乙夜を呼ばなければ動かないはずだった。 「――わかってる? 自分が馬鹿なことをしたって」 「……ん、」 耳元で低く囁いた乙夜の言葉を理解したわけではないだろうか琴音は同意するような声を洩らし、乙夜は苦笑した。 焚いている香の中には鎮痛成分も含まれている。 痛みはだいぶ引いているはずだが、それでも、最中はかなり痛んだのだろう。 どれだけ手荒く扱ってもつめをたてることのなかった琴音が、初めて乙夜の肌に傷を残していた。 その傷を乙夜はそっとさする。治すことは簡単だが、躊躇われた。 ――手元においていていいのだろうか。 迷いは今もある。 けれど、琴音が同族のにおいを纏わせてきた時に、実質、手放すという選択肢は無くなったのだと思う。 なによりも、琴音の血は乙夜の同族を惹き付けるほど、甘くなっている。 無理やり身体を開いて、快楽を教え込んだ。 けれど女になることで、琴音の血がその香りを増していることに乙夜は気付かない振りをしていた。 迷う振りをして、気付かない振りをして。 そのくせ自分以外の誰かの手が琴音が触れることは許しがたいのだ。救い難い、と乙夜は自嘲を込めて呟いた。 最終的に残った、仲間にするか、印を刻むかという道で、結局、一度選んでしまえば決して引き返すことのできない先を選ぶことはどうしてもできなかった。 ――他の男に抱かれてみる、か。 意地の悪い言い方をしたな、と思う。 忠告を無視して辰巳に近づいた琴音に腹を立てたのも確かだが、それ以上に、琴音が辰巳を選ぶのではないかと思っていた焦燥をぶつけてしまった。 止める資格など、どこにもないとわかっているのに、名を呼んで欲しいと願っていた。 そのうえまだ望んでいる。捕らわれの小さな鳥がこの手から逃げてゆく事を。 ――どうしようもないほど、矛盾している。 「――乙夜くん?」 そろそろ焚き染めた香が薄れてきていた。 眠りが浅くなったのだろう。琴音は薄く目をあけゆっくりと瞬きをしていた。 乙夜はそっと琴音の額に口付けると愛しさを込めて優しく微笑んだ。 「琴音、君が好きだよ」 琴音が僅かに息を呑んだ。 みるみるうちに瞳の中に涙が溜まり、するりと頬を滑り落ちる。 「……ホント、に?」 「君が僕を救い上げてくれた。何もかもに裏切られ、背を向けられた僕に、君だけが手を差し伸べてくれた」 小さな琴音を思い出し、乙夜が微笑む。 琴音が不思議そうに首を傾げている。 きっと覚えてはいないのだろう。いつやはそっと琴音の目の上へ掌を乗せた。 次に目覚めた時、琴音が今の会話を覚えている事はありえない。 焚き染めた香が消えれば、その間の琴音の記憶も消えうせる。 だからこそ伝えることができた想い。だからこそ言えた言葉。 「今はゆっくりお休み、琴音。いい夢を――」 濃密な香りが緩やかに、けれど確実に霧散していく。 慈しみたい、それと同じだけ、突き放したい。 「僕はいつまでこうして君の傍にいられるのだろうね」 自嘲を込めて自らを笑う乙夜の見つめる先で、琴音は微かな寝息を立てていた。 〜Fin〜 |
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