― ノワール・2 ―

刻印(3)


辰巳が来る前は――否、乙夜に近づくなと言われる前は何気なく入っていけた店のそばを、かれこれ十数分、琴音は行きつ戻りつしている。
不自然にならない程度にそっと店の中をのぞけば、辰巳は書棚の整理をしていた。

名を呼ばれたことが、なぜか気にかかって仕方がなかった。
乙夜に言ってみようかとも思ったが、琴音がオオヌキ書店を訪れてから七日、連絡がなかった。

不安は胸に渦を巻き、このままもう会えないかもしれない、という奇妙な確信が生まれつつある。
飽きられたのかもしれないし、自分以外の誰かを餌にすることにしたかもしれない。

連絡が絶えてから四日目に琴音は一度だけ乙夜のアパートを訪ねてみたが、そこはしっかりと閉ざされていた。

考えてみれば、乙夜の身の回りの品は驚くほど少なかったように思う。
それはいつ姿を消してもいいように、ということだったのかもしれない。

それでも、まだは部屋の解約はされていないらしく、それだけが琴音のささやかな希望だった。

トートバッグの持ち手を無意識のうちに握り締め、立ち止まる。

ほんの少し声を掛けるだけだ。聞き間違いだったかどうか、それだけ。
もしかしたら、店主に聞いたのかもしれない。以前、予約注文をしたときに、名前を書いたことがある。
きっと他愛のないことだ。訊いてしまえばすっきりするに違いない――。

それでも琴音の逡巡は続いた。やはり乙夜に言われた言葉が気にかかり、どうしても一歩が踏み出せない。
そんな琴音の迷いを断ち切るように、辰巳が顔を上げた。硝子越しに目が合ってしまう。

「待って!」

とっさに走り出した琴音を、店から飛び出してきた辰巳が呼び止めた。
追いつかれ、肘をつかまれる。振り向いた琴音は、髪の先を風に乱した辰巳と見詰め合うことになった。
あわてて目を伏せると、肘をつかんでいた辰巳の手が離れた。

「少し、お話ししたいことがあるんです」
「なんでしょう、か?」

ぎこちない琴音に、辰巳が柔和な笑みを浮かべる。

「わたし、今日はもう上がりなんです。五分だけここで待っていてくれますか?」
「え? あの、困ります! 辰巳さん……っ」
「ああ、嬉しいな。名前、覚えてくれてたんですね」

屈託のない笑顔に言葉を失う。
辰巳が戻ってくるまでの五分間、琴音は所在無くその場で待つことになった。



***




「あの……お話しって、なんでしょうか」
「あ、はい。うん、この辺でいいかな」

琴音と連れ立って歩いていた辰巳が辺りを見回し一人うなずいた場所は、公園だった。
小さな林も敷地として持つここは、琴音が乙夜の秘密を知ったところでもある。

日も暮れれば恋人たちの場になるが、夕闇の中ではまだ充分に人の気配があった。
帰宅途中のサラリーマン、犬の散歩をしている女の子もいる。

近くのベンチに誘われ、琴音は辰巳と並んで腰掛けた。

「なんていったらいいのかな。――あのね、琴音さん」

はっきりと、呼ばれた。今度は聞き間違いなどではありえなかった。
鞄の上にきちんとそろえた琴音の両手は、ぴくりと震えた。

「――わたしの名前、どうして」
「ああ、調べました」

ひとかけらのやましさもないように明るく辰巳が答える。
琴音は背筋にひやりと冷たいものが走るのを感じた。

ここで辰巳と一緒にいることが、ひどい間違いのような気がしてならない。
穏やかな辰巳の笑みが、怖いと思った。

「琴音さん、わたしの餌になりませんか?」
「……え、さ」

何度も琴音を苛んだ言葉。
辰巳の口から聞かされたそれに、琴音はまるで現実感を持ち得なかった。

「血を提供してくだされば、身の安全は保障します。あなたのような人間にとっては悪い取引じゃない」
「わたしのような、人間?」
「ひとくちに血液といってもね、ちゃんと味があるんです。あなたの血は、とても薫り高いんですよ」

辰巳の口元に、白い犬歯がのぞく。
乙夜と同じもの、けれど辰巳のそれには恐怖だけを覚えた。

「――っ!」

現実なのだと認識する。辰巳は乙夜と同じ種族、血を糧に生きるものなのだと。

乙夜が近づくなといった意味を、琴音はようやく悟った。

ベンチから立ち上がろうとするが、体がうまく動かない。
動かそうという意思はある。けれど体は軋むだけで、指先すらまともに動いてはくれない。

「や……っ」

拒絶は、口元を覆った辰巳の手のひらに消えた。

首元に辰巳が顔を埋めると、すぐに鈍い痛みに襲われた。
咬み付かれたのだと理解したのは、辰巳がごくりと喉を鳴らした時だ。

人通りはあるが、横から辰巳が琴音に覆いかぶさっている。血が伝う肌も巧妙に隠されている。
傍目からは恋人同士がじゃれているようにしかみえない。

啜られる感覚。指先、足元、体の末端からすっと冷えていく。
容赦なく牙で抉られ、制服の襟元がじわりと赤く染まった。

――助けて。

無意識のうちに求めるのは、乙夜だった。脳裏に姿が浮かぶ。
求めても得られないとはわかっている。来てくれるわけがない。

――私はあの人にとって、まさに「餌」でしかない。

絶望的な気持ちで、それでも琴音は呼ばずにはいられなかった。

「い……つや、く……」

琴音の眦から零れ落ちた涙が顎の先からぱたりと服の上に落ちた。

閉じた瞼の裏が、なぜか薄く明るさを増した。
首筋に感じていた熱さが唐突に消え失せ、琴音は乱暴に腕を引かれた。

両の腕に抱きこまれる安心感。
きちんと手の入れられたシャツからはベルガモットの香り。

「……あ」

見上げた先に、乙夜の端正な顔があった。
人工灯に黒々と光る双眸は地面に投げ出された辰巳を睥睨している。

どうしてここに、と思うよりも安堵と嬉しさで足から力が抜けた。
乙夜は、少しも揺らぐことなく琴音の重みを全て支えた。

「どうしてあなたがここに……追放されたはずだ」

辰巳の声が震えている。
追放、という言葉で、乙夜の手にわずかだが力が入るのを琴音は感じた。

「いつの話をしている? 大陸から消えている間、まさか僕がなにもしていなかったとでも?」

いつになく抑えた乙夜の低い声は、おそらく注目を集めていることが理由だろう。
脇を通り過ぎていくサラリーマン風の男性から好奇の視線が向けられている。
派手に殴りあっているわけでもなく、声を荒げているわけでもないので表立って注視してくる通行人はいないが、それでも目立っていることは間違いなかった。

「だとしても、その娘に餌のしるしはついていない、何故邪魔をする」
「――さっさと消えろ。その牙を抜かれたくなければ」

辰巳の虚勢は、凄みをきかせ不遜に言い放った乙夜に飲み込まれた。

一瞬悔しそうに唇を咬み、辰巳がさっと巳を翻す。
木々の間に入り込んだ姿が影で覆われ見えなくなったのは、瞬く間のことだった。



***




――帰ってきてくれた。消えてしまったわけじゃ、なかった。

痛みより怖かったことより、何よりも嬉しさで琴音の目に涙が浮かぶ。

「乙夜く、」
「――忠告はしておいたはずだよね? 琴音」

冷ややかな声音に、琴音は自分の軽率さを思い出し身を竦ませた。
乙夜の男性にしては細い指が琴音の頤にかかり、ぐいと容赦なく引き上げる。

「ずいぶんとひどく咬まれてる」

引き連れるような首筋の痛みに歯を食い縛った。
琴音の首筋を検分するように眺めた乙夜が、首筋に顔を埋める。

首の付け根から耳の下辺りまで、ざらりと肌が舐められる。
特に噛み痕は丹念に辿られた。熱い感触と共に、痛みが和らぐ。

乙夜が首筋から離れた後、琴音が手のひらで触れてみると傷つけられた痕跡はどこにもなかった。
ただブラウスの襟元だけが血に濡れている。
これはどうしようもできないな、と乙夜が嘆息するのを聞きながら、琴音の足元はなぜかおぼつかなくなっていた。

辰巳に血を啜られた所為かとも思ったが、貧血の症状ではない気がした。

「乙夜くん、辰巳さん――あの人を知ってるの?」

どくどくと心臓が脈打っている。奇妙に頬が火照る。ずくりと下腹部がうずく。

――体が、変だ。

「直接はしらない。でも僕と同じ種族だ。純血では無かった様だけど」
「純血」

両親共に同じ種族ということだろう。
乙夜のことをほとんど知らないのだと琴音は改めて思い知らされた。

「乙夜くん、しるしって、なに?」

辰巳の言ったことを思い出すままに尋ねてみる。
ため息のように吐く息が、熱を持っている。考えたくないが、乙夜に焦らされている時の感覚に近かった。

「? ……乙夜くん?」

待っていても答えをくれない乙夜を不思議に思い、見上げる。
乙夜は琴音の問いには答えず、なにかを確認するようにすっと目を細めた。

「――僕が欲しい?」

断定的に言われ、びくっと琴音の肩が震える。

「なん、で」

何故わかってしまったのか。
そんなにあからさまな態度をとっていたのだろうかと、琴音は羞恥に消え入りたくなった。

「僕らにはそういうこともできるから」
「そういう、こと?」
「獲物の理性を奪って性欲を高める。君たちが食材を調理するのと同じかもしれないね」

乙夜のため息混じりな説明に、以前、性交の時に巡る血が最も美味なのだと聞かされたことを思い出す。
ならばこれは自分の意思ではないのだと、わずかばかり安堵した。

「どうすれ、ば」
「簡単だよ、男と寝ればいい。もともとがそういう効力のものだ」

こともなげに言われ身体が震える。
支えてくれているだけの乙夜の手にさえ、感覚が刺激される。
胸の頂が硬く凝る。触れられてもいない場所から蜜が溢れ、ショーツが湿っているのがわかる。

「どうする? 僕を拒んで他の男と寝てみる?」
「……や、いやだよ、どうして、そんなこというの……」

琴音は力なく首を横に振った。
乙夜以外の男性に身体を開く――考えるまでもなく無理だ。

腰に回された腕が、琴音に歩くことを要求していた。
よろめく足を進めようとするが、意思と反してがくりと膝が折れる。
前のめりに倒れるところを乙夜に抱きとめられ、そのまま否やもなく抱き上げられた。

あたりにはまだ人通りがある。中には顔見知りもいるかもしれない。

おかしな噂がたてば乙夜に迷惑がかかる。自分で歩こうと琴音はもがいた。
肩と膝裏にまわされた乙夜の腕に力がこもる。

「乙夜く……、まって。駄目だよ、知ってる人にみられたら、」
「そうだね。みられるかもしれない。でも琴音、歩けないよね? どうするの?」

的確に事実を指摘された琴音は、一瞬、言葉に詰まった。
歩けそうにないのは間違いない。けれどどうしたって乙夜に迷惑はかけたくない。

「でもがんばるから、大丈夫だから」

往生際悪く抵抗を試みると、乙夜があきれたようにため息をついた。

「嫌でも少し我慢して。なにか言われた具合が悪かったって言えばいい」
「……っ、嫌なわけじゃ、ない、よ」
「なら大人しくしておいで。車までだから」

聞き分けのない子供をなだめるように囁かれ、抵抗を諦める。
まっすぐに前をみている乙夜を、琴音はそっと仰ぎみた。

追放――と、辰巳は言っていた。
まちがいなく彼は乙夜の過去を知っていた。けれど乙夜がここにいることに驚いてもいた。
ましてや琴音とかかわりがあったなど、思ってもいなかった事態だったのだろう。

尋ねたいとは思う。けれど琴音には、自分がそこまで乙夜に踏み込んで良いものか、わからなかった。


(2007.8.1 up)

Back ‖ Next


:: top * novel ::


Copyright (C) 2007 kuno_san2000 All rights reserved.