― ノワール ― |
手首に絡まる冷たい鉄の感触。 動くたびにシャラシャラと金属性の音を立てるそれは、細い腕を拘束しパイプベッドの縁へと繋がっている。 「や……や、もう……やめ……、」 途切れる声に続くのは、湿った水音。 無理やり開かされた足の間に埋められているそれから齎されるのは、抗いようも無い甘美な快楽。 まだ幾分幼さの残る少女を組み敷いているのは青年だった。 きっちりと着込んだスーツを乱れさせることの無いまま、ベットに横たわった少女を陵辱している。 軋るベット。その合間に少女の甘い悲鳴と喘ぎの混じった声。 「やめ、て……ごめ……なさ、……い、つや……君……、」 語尾を涙で掠れさせながら少女が懇願した。 何も纏わず両手を拘束されたまま、既に何度も何度も青年に身体の奥を突かれている。 その度に襲ってくる疼きに達しそうになり、その度に青年に焦らされてかわされる。 過ぎた昂ぶりに、幾筋も涙の跡が残る少女の頬に更に雫が滑り落ちてゆく。 「嫌だね、やめない。琴音、僕に美味しい食事をさせてくれるんだろう? それにほら、こんなに濡れてる。いけない子だね、君は。」 「あ……、あ……っ」 少女の中を激しく突き上げ、青年が薄く笑った。 少女――琴音の中に強烈な甘い痺れと、絶望が満ちる。許してはもらえない、そのことをはっきりと感じた。 乙夜の口の端に翳りが現われ、琴音の黒い瞳に白い牙が映りこむ。 首元に冷たい唇の感触。琴音はゆるりと眼を閉じた。 痛みは殆どない。ただ乙夜の喉元が微かに動いているのを感じる。 *** 昔から親しくしていた優しいご近所さん。 琴音の家庭教師もしてくれた、優しい、兄のような人。 琴音は乙夜のことがずっと好きだった……否、憧れていた。 無事志望の高校に受かった時も、自分のことのように喜んでくれた。 告白をしようとも思った。けれど到底手の届く人ではないからと、諦めて自分を納得させて。 それでも諦めきれない思いは燻ぶり、社会人になった乙夜の姿を稀に見かけるだけで胸が痛かった。 その関係が変わったのは、あの日。 珍しく帰宅が遅くなった琴音は駅からの道のりを急いでいた。 昼間の晴天が嘘のように夕刻から急に翳り出した空はそのまま日没となり、本来なら望めるはずの満月は厚い雲に覆われ、街燈の少ない通りは人の判別すら難しい、そんな中。 何気なしに眺めた脇道の端に琴音の意識は向けられた。 眼に留まったのは、恐らく見知っていると思しき背広姿の人物。 「――あれ……やっぱり乙夜君?」 じっと眼を凝らし、どうにか確信を得た琴音は首を傾げた。 乙夜が歩いているのは、自宅があるはずの方向とは正反対の道だった。 夜も更けてきている。しかも平日の夜だ。 これからどこかに出掛けるにしてもなぜ車ではなく歩きなのだろうと考えるうちに、琴音は迷いながらも乙夜の後を追っていた。 乙夜は足早にどんどんと街燈の無い方向へ進んでいく。 そして、人気のない公園へと乙夜の姿が消えた。 「……乙夜君、どうしてこんなところに……?」 公園の入口で戸惑いも顕に琴音は足を止めた。 追うべきか引き返すべきか、更に迷う。理性は戻れと告げてくる。けれど……。 足は自然と前に動き出した。 一歩、公園の中に踏み込んでしまえば、後は導かれるように小走りで乙夜の姿を捜した。 そして乙夜は、居た。 公園の奥、まるで人の居ない雑木林の中に。 だが、乙夜は一人ではなかった。乙夜に抱きかかえられるように女性がその胸に凭れかかっていた。 琴音の体が強張る。そういうことだったのかと、涙腺が痛み、視界が霞んだ。 なんて馬鹿な真似をしたんだろう、何故かはわからないが乙夜はここで恋人と会う約束をしていたのだ。 琴音は後をつけるという浅ましい真似までした自分を心底嫌悪した。 早くこの場を立ち去ろう、涙を拭い乙夜と女性に背を向けようと来た道を引き返そうとした、その時。 乙夜に抱えられていた女性の体が不自然に傾いだ。 琴音の足が止まる。不審に思い、眼を凝らす。しかし状況は良く分からない。 ほんの少しだけ近づいてみようかと思いかけたところで、かしゃん、と何かの落下音がした。 それが、自分のつけていた髪留めが緩んで落ちた音だと琴音が気付いた時には、もう遅かった。 琴音の居る方角に乙夜の鋭い眼差しが向けられた。隠れる間も無い。 強張った表情のまま、琴音は立ち尽くした。 「……い、いつや……君?」 不意に、乙夜の足元に女性が崩れ落ちた。 首には、伝う血の跡が二筋。 「……琴音? どうしてここに?」 乙夜は驚いたようだったが、それはまるで街中で知人に出会ったかのような、その程度のものだった。 琴音は身じろぎせずに乙夜を凝視する。 「な、に……乙夜君、何、して……その女の人、どうし……、」 「ああ、彼女? 大丈夫、なんとも無いよ。――僕には、少し変わった嗜好があるんだ、彼女にはそれに付き合ってもらっているだけ。悪いけど琴音、邪魔しないでくれる?」 暗にさっさと立ち去れと言われているのだと悟る。だが、琴音の足は動かなかった。 見も知らない女性とはいえ、この状況を放り出して逃げ出せない。 それに、乙夜は変わった嗜好、と言ったが、これはその一言で済ませられるものなのだろうかという考えが頭を過ぎた所為もある。 「だ、だめ……、だめ、だよ、そんな……っ、」 「何が駄目?」 「だって、その女の人、具合が悪そう……血が、出て……る、し。」 「そうだね。でもこの状況で彼女に帰られてしまうのも、僕が困る。」 「で、も、でも……っ、」 猶も琴音は食い下がった。今まで乙夜を怖いと思ったことはない、けれどこの時ばかりは足が震えるほど恐ろしかった。 「なら琴音、君が身代わりになってくれるの?」 乙夜が冷たい眼で琴音を一瞥し、薄く残酷な笑みを浮かべる。 「え?」 反論する間もなく、いきなり乙夜に肩を押さえつけられた。背中が林立する樹の幹に当たる。 その勢いのまま、琴音のショーツは乙夜により膝まで下ろされた。 あまりの出来事に琴音は、一言も口をきくことが出来ない。 乙夜の指が、何の躊躇も無く琴音の中に入れられた。 「痛ッ」 「ああ、痛い? ごめんね、なら少し慣らそうか。」 乙夜の指が潤いのない琴音の中を掻き乱す。 初めての感覚に、琴音は低く呻いた。 何も迎え入れたことの無い秘部を乙夜に蹂躙される。 「い、や、っ、乙夜君、やだ、止めて……っ、お願い、何……や……やめ、て……っ、やだ……っ!」 「まだこっちだけじゃ感じない……? じゃあ、これは?」 指を咥えさせられている部分よりも上にある突起を、乙夜の親指が軽く押した。 「あ……っ!」 「よかった、こっちは大丈夫そうだね。ここも、少しだけど濡れてきたかな。」 そういって、乙夜の指がまた琴音の内部を擦った。未知の感覚に、琴音は知らず乙夜の腕をきつく握り締めていた。 乙夜の指が琴音の中の浅い部分に触れる。襲ってきたのは、足が崩れ落ちるような、強烈な刺激。 乙夜の身体にすがり付き、琴音は小さな悲鳴を上げた。 「ここ、気持いい? じゃあ、琴音の一番良い所はここなんだ?」 「……い、とこ、ろ?」 「そう。ちゃんと中でも感じる場所があるんだよ。ここ、突かれると良いでしょう?」 「ひぁ……っ」 「ほらね。今、僕の指を締め付けた。」 琴音の耳元で、乙夜が楽しそうに笑っている。 信じられなかった。一体この男の人は、誰? と、琴音の眼が見開かれる。 「琴音、君はとても美味しそう……初めての子は久しぶりだからね、優しくしてあげる。」 「や、やだ……っ、乙夜君、やだ……っ!」 「無駄だよ、折角忠告してあげたのに引き返さなかった君が悪い。もう逃げられない、いや、逃がさない、かな。」 蕩けそうな視線で、瞳で、唇で。乙夜の全てが琴音を惑わす。 踏み入ってはいけない領域に誘われているとわかっていながら、琴音に為す術は無かった。 「……っ、あ、やぁ……痛、い……、」 「琴音……琴音……っ」 露を含んだ草の上に広げられた乙夜の背広。 琴音の背中を守るには充分すぎる程のその上で、乙夜は琴音を蹂躙した。 冷たい乙夜の肌。けれど体の中に感じる乙夜の熱は不思議なほど熱くて。 雲に覆われた月が僅かに覗いた瞬間、仄かな明るさの中でみた乙夜の切なげな、けれど苦しげな様を、これから先きっと忘れることはできない、琴音はそんな気がしていた。 *** ベッドに横たわりながら、琴音は身支度をする乙夜の広い背中をいつものようにぼんやりと見つめる。 拘束は解かれたが、つながれていた手首はまだひりひりと痛んでいた。 あれからもう、数ヶ月が経っている。 あの時、乙夜が言った”変わった嗜好”というのが言い訳だったという事は琴音にももうわかっていた。 乙夜は、人間、ではない。人として生きるには、その定義からある一点のみが大きくかけ離れている。 血を、生きる糧としているのだ。 そして自分は乙夜の餌になったのだ、と琴音は理解していた。 ――乙夜君は、私とは違う。私は、乙夜君と同じ位置に立つ事も出来ない。 心の中で、そっと囁く。 けれど琴音には、どうしても乙夜を嫌うことができない。 最初の頃こそ怖かったがそれすら今は薄れてきている。 乙夜は琴音に酷い事を強いる。 なのに琴音が気を失うように眠り込んだ後、優しく優しく琴音に触れる。 切なげに、悲しげに、愛しげに。 半覚醒の琴音がそれに気付いたのは極最近の事だ。 何故か乙夜が辛そうで、何の慰めにもならないだろうと思っても琴音は乙夜を無性に抱きしめたくなる。 もちろん乙夜の迷惑そうな顔を見たくは無くて、いつも実行することは出来なかったけれど。 ――乙夜君、私ね、多分貴方が何であっても……人じゃ、無くても、いいみたいなんだよ。……だけどこれって変だよね、おかしいよ、ね? それは自分ですら正当化してしまうことの出来ない気持ち。 でも誰かを好きになるって、もしかしたらそんなものなのかもしれない。 ネクタイを締めた乙夜の姿を最後に、琴音はゆっくりと瞼を閉じた。 *** 「本当に馬鹿な子だね――、どうして僕のところになんて堕ちて来たんだ。」 眠ってしまった琴音の髪を一房、狂おしさの垣間見える瞳をしながら乙夜はそっと掬い上げる。 「君があんなところに現われなければ、手を出すつもりなんてなかったのに。」 琴音の頬を乙夜の手が優しく撫でる、少し乾燥した琴音の唇に口付ける。 餌にする気など、もともとなかった。 例えそれが偽りであるとしても人間として彼女の傍にただ居たかった、それだけだ。 けれど血を啜る時、乙夜はどうしようもなく高揚する。 抑制が効かなくなる。でなければ、幾ら現場を見られたとはいえ琴音に対してあんな真似は出来なかった。 「どうして、堕ちて来た……っ」 額を押さえ、端整な顔を苦渋に染めながら乙夜が搾り出すように呟く。 一度口にしてしまった琴音の血は酷く甘美で、自分から突き放す事などもう出来ない。 生物としての在り方が違う。時間の流れすら乙夜と琴音では違うというのに、だ。 だから琴音を酷く扱う。自分から離れて行ってくれるようにと願っている。 なのにその願いよりも強く、離れていくなと願っているのは矛盾以外の何物でもない。 それに幾ら琴音を貪っても飢えている自分が何よりも恐ろしかった。 このままいけば、いつか制御が効かなくなり琴音を食い尽くしてしまうかもしれない。 ならばその前にいっそ仲間にしてしまおうか、とも考えた。 それは今も乙夜の中に一つの選択肢として残ってもいる、だが。 長い時の間にゆっくりと――けれどその生命の在りかたに疑問を持ち壊れていった同胞を何人も見てきた。 仲間に引きずり込んで、もし琴音がそうなってしまったら。 壊れていくであろう琴音の傍にいる自信が、乙夜には欠片ほども無かった。 俯いた乙夜の双眸から琴音の腕にぱたりと雫が零れる。 まだ自分に流れる涙があったのかと笑い出したくなった乙夜の前で、琴音の瞼がゆるりと緩慢に開かれた。 まだ眠り足りていないらしい琴音はどこか夢現だ。 儚げな笑みで伝った雫の跡を指でなぞり、そっと乙夜の頭を抱き寄せる。 「――琴音?」 「泣かないで、乙夜君……ごめんね、私が何も出来ないの、わかってる……でも好き、だよ? 私は乙夜君が、好き……。」 乙夜の肩が震えた。 ありえないことだと思う。琴音はまだ夢の中を彷徨っているに違いないと。 でなければ何故、酷い仕打ちを繰り返す自分に、琴音の好意が向けられるというのか。 冷たい静けさを破り、乙夜は希望を打ち砕くように言葉を吐き出した。 「僕は君の事を好きじゃない。」 「……うん、知ってる……それでも良いの、だから……もう暫く傍に……いさせて……。」 「愚かしいよ、琴音。」 「いつや、くん?」 「逃げた方が幸せになれるのに、そうしない君はね、とても愚かしい。」 「ちがう、もん。いつやくんがいなきゃ、きっと私は幸せじゃない……よ……。」 甘い甘い、満ち足りた笑みを浮かべた琴音の語尾に寝息が混じった。 再び夢の中の住人となってしまった琴音は、乙夜の心情などきっと知る由も無い。 「好き、じゃない。好きじゃ、ない――、愛しているから、琴音……、」 青白い琴音の手の甲に、乙夜がそっと触れる。 「だから早く、僕から逃げて。」 ――僕が君を、染め変えてしまう前に。今のままの君でいるうちに。 それは酷く悲しい願い。 けれど人としての生を失った乙夜が初めて心から叶って欲しいと切望した願い、だった――。 |
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